登戸研究所資料館を見学
登戸研究所は、1937年11月、「陸軍科学研究所登戸実験場」として開設された。最初は、主に電波兵器・無線機器・宣伝機器などを開発するための施設だったが、1939年に
名称が「陸軍科学研究所登戸出張所」となり、従来の電波・無線関係が第一科に、新たに
毒物・薬物・生物兵器・スパイ用品などを扱う第二科、偽札・偽造パスポート製造を行う第三科が設置された。登戸研究所の正式名称は、「陸軍技術本部第九研究所」を経て、最終的には1942年10月に「第九陸軍技術研究所」へと変わり、この頃には、兵器の量産部門である第四科が置かれるとともに、第一科では風船爆弾の開発が行われた。戦局の悪化に伴い、1945年に主たる機能は長野県伊那地方に疎開・分散し、そこで敗戦を迎えたとのこと。(明治大学平和教育登戸研究所資料館ガイドブックより抜粋)
川崎に引っ越してきて37年経つというのに、登戸研究所については、あやふやな認識しかなく、もっときちんと知らなければと思い、帰りに大学生協で「陸軍登戸研究所の真実」を購入した。著者の伴繁雄氏は所員として異動もなくずっと深く登戸研究所に関わってきた一人である。伴氏をはじめ、関係者たちは長く口を閉ざしていたが、1980年代に高まった反核・平和運動の高まりの中で、長野県・赤穂高校と川崎市・法制二高の高校生たちの聞き取り調査を通じて触れ合うことで、「大人には話したくないが、高校生の君たちになら話そう」ということになったという逸話はとても感動的である。
また、印象的だったのは①風船爆弾と②偽札づくりのことである。①は直径10m位の気球をこんにゃく糊で和紙を貼りあわせて作り、遠く9,000㎞離れたアメリカ本土まで飛ばすというもので、約9,300発放球して被害者は6名だったとのこと②は文字通り中国の偽札を大量に印刷して経済を攪乱するとのこと。これらの作戦を国をあげて行っていたのだが今となっては何をか云わんやである。これも戦争の愚かしい一面であると感じた。
(石村早苗)